MBC/PR会社創業物語
MBC/PR会社創業物語



MBC/PR会社創業物語 #01 「何だこれ?DM広告?」

MBC代表の吉池理(よしいけ・まさし)が生まれて初めてPRというものの本当の意味やプレスリリースという書面存在を知ったのは、某テレビ局制作現場でフリーディレクターとして働いている時でした。日本大学芸術学部映画学科卒という、ちょっぴり変わった学歴を持つ私は、学生時代からNHK、民間衛星放送局を中心とするテレビ制作現場にアルバイトADとして入り浸っており、学業とADのどちらが本業かわからなくなってしまうような生活を送っていました。ADを初めて間もないころ、番組制作現場に一般の会社様から妙なFAXや封書が届くのに気が付きました。最初のうちは普通に業務に関する文書だと思っていたのですが、それほどスタッフ皆がそれら文書の存在を気にしない(というか、スルー状態)であるのが何となく気がかりにはなっていました。

AD吉池:「何だこれ?DM広告かな・・・すみませえん、Zさん(チーフD)!なんか企業さんからDM広告みたいのがFAXでたくさん流されてきているんですけれど」

Zさん:「バカ、それはプレスリリースっていうの。民間企業なんかがFAXや封書なんかで、自社の情報をメディアに発信すんだよ。それをネタに番組作って欲しいんだよ」

AD吉池:「へー、じゃあこうやってマスメディアにFAXすれば必ず記事になるんですね」

Zさん:「大バカだな。実際はほとんど使い物にならないよ。だって、ほとんどがクズみたいな情報なんだぞ!バカの一つ覚えみたいなつまらないリリース送ってくるところも結構あるからさ。ほとんどDMに近いものだってあるしな。」

AD吉池:「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。確かに広告っぽいコピーのが結構ありますね 笑」

 大学生兼ADだった19歳の頃、こんなやり取りをしたのを今でもはっきりと覚えています。当時、スポーツ情報番組の制作現場につめていた僕が初めて手にしたそのプレスリリースは、あまり聞いたことの無いメーカーさんが作ったサッカー練習に使うための新商品のお知らせだったと思います(詳しくは忘れてしまいましたが)。

 かなり派手派手しいコピーと手書きのプレスリリースで妙に記憶に残っています。当時、PCもそれほど普及していませんでしたが(それでもNHKの制作現場にはモノクロディスプレイのMACが一台だけあったのを覚えています)、日本サッカー協会等のきちんとした組織から送られてくる報道用資料はキチンとタイプがされたもので見た目もきれいでした。そんな中半分手書きのような汚いプレスリリースは、10代の私の目には普通に「こ汚いFAXDM」にしか感じられませんでした。

 その商品以外にも相当数のプレスリリースがテレビの制作現場には送られてくることに気づきましたが、どれもこれも同じような文言で作ってあり、たいした情報でもないので区別が全くつきませんでした。

MBC/PR会社創業物語 #02 「PRとかってお願いできます?」

またあるとき、NHKでお世話になったフリーディレクターの方に引っ張られて、民放のバラエティ番組の制作現場でADをしていました(SMAPさんが出演している特番だったのですが、なぜか心霊怪奇モノ?のようなテーマでしたね)。

局のデスクで仕事をしているときに電話が鳴るので出てみると「SMAPが出演する番組制作にかかわる方なら誰でもよいので、少しだけお会いしてお話がしたい。今近くまで来ているから」という内容でした。上司にその旨を話すと「面倒くさいから吉池行ってきな」と冷たく言い放たれ、わけもわからずその客人に会いに行きました。

 局のロビーでお会いした電話の主は50代位の中年女性で、なかなか身に着けているものも高そうな感じで、それなりにお金持ちなのでは?と当時の私でも一瞥でわかるくらいの身なりをしていました。名刺交換をして挨拶もそこそこに、その女性は私におもむろに言い放ちます。

「ところでPRとかってお願いできちゃったりするのかしら?」

 パブリシティなんて事に対する知識などまったくなかった当時、PR=広告宣伝だと思っていた私は何のことやらわからないが「これはおそらくスポンサードの打診なんだろうな」と少ない頭で考えます。

「それなら局の営業にお会いしたほうがよいですよ。連絡いたしましょう」

 というとその女性は突然ぎんらぎんらに光る時計をバッグの中に忍ばせていたケースから取り出して、こういいました。

「CMじゃなくって、実は当社、キムタクさんにこの時計をつけていただいたらどうかなって思って今日はこちらまでお邪魔したんです」

 今考えれば単なるメディアキャラバンだったのだが(しかもスタイリストすっ飛ばしの「いきなりディレクター訪問」である)、当時の私は何がなんだかわからず、とにかくそういう権限は自分にはないので営業に話をしてくれないかで突っぱねてしまった。この女性は別にPR会社ではなかったのだろうが、とにかくこれが初めてのPRというものへの接触体験でした。

MBC/PR会社創業物語 #03 「つまらないリリースはどんどん捨てちゃっていいから」

大学時代をずっとTV制作現場をウロウロしながら過ごした僕は、卒業後にフリーディレクターという立場であちらこちらのTV制作現場で働いていました。流石に学生時代ずっとADで過ごした僕は、割と要領と人当たりが良いため、かなり年配のディレクターさん、プロデューサーさんに好かれるようになっていました(よく親父キラーといわれました。変な意味ではありません)。

制作現場で番組企画にアイデアを多少なりとも取り上げてもらえるようにもなると、企業から制作現場に送られてくるプレスリリースの大部分を、(一応アシスタントの女性が分別した後に)僕の判断で「採用」「ゴミ箱直行」の選択をすることも多くありました。

上司:「ああ、吉池ちゃんさあ、つまらないプレスリリースはどんどん君が捨てちゃっていいから。本当に良さそうなのだけ企画会議にあげてね」

D吉池:「了解です(しかし・・・どのプレスリリースもつまらない。そもそもリリースの文面はどうしてこんなに工夫がなくってワンパターンなんだろう?俺がADを始めた頃からどの会社も全然変わってないよなあ。たとえ同じネタでも、俺ならもっと業界人が飛びつきそうなリリース文面にするのにねえ)」

 毎日200通近くものプレスリリースに目を通すようになると、益々ほとんどの企業のリリース文章の工夫の無さに辟易するようになってしまい、挙句の果てにはリリースのタイトルも全部読まずにゴミ箱に捨ててしまうようなこともありました。

 いや、今だから正直にいいますが、「忙しくて面倒くさい」という理由でロクに目など通していなかった事のほうが多かったのが事実かもしれません・・・(これは私に限ってのことではありませんでしたが)。

 また、制作現場が非常に忙しい時間帯、記者会見や取材にスタッフが出計らっている時間帯、挙句の果てには番組ロケが終了してから「今回の企画に弊社をどうか!」といったような、タイミングのずれた間抜けなコンタクトを行ってくる会社も数多く見ました。それどころかメディアのルールや慣習を知らないばかりに、制作サイドの怒りを買ってしまうようなプレスコンタクトやプレスリリースまでありました。そんな企業はあっという間に「ブラックリスト(絶対取材しないぞリスト)」にリストインでした。

MBC/PR会社創業物語 #04 「へえ・・・こんなプレスリリースもあるのか」

そんなとき私もPR会社の存在を初めて知りました。送られてくるプレスリリースで中で、一部だけ非常に凝った作りであるというか、サプライズの要素を入れてあるようなものを発見したのがきっかけです。今では珍しくありませんが、映像素材や商品サンプル、開発バックグラウンドストーリーブックなどを同封したプレスリリースキットを見て、PR会社の仕事が如何にマスコミの耳目を集めることに長けているかを知りました。

PR会社に頼らず会社自らが作り送られてくるプレスリリースは代わり映えのしないものが多かったのですが、何十通に1通(これは欲目でして、実際はそれ以下かもしれません)位の割合で、「お!なんだこれ?」と私たちの注目を集めるものがありました。もちろん、注目を集めたからといってすぐに取材先として選ばれるわけではありませんが、工夫された面白い内容のプレスリリースはきちんと別枠で保存しておき、企画内容のタイミングが合えば、時間がたってからでも取材を行ったことはしばしばありました。

 プレスリリースはニュース性だけでなく、まずは耳目を集めるための表現方法仕掛けをしておくことが大切であることに気づいたのがこのころです。私たちテレビ制作の人間は、まんまとPR会社やPR上手の会社さんに踊らされていたからです。

 雑誌業界や新聞業界の制作現場に勤める友人にプレスリリースの話を聞いても私たちと同じような考え(まずはアイキャッチ要素で次にニュース性)でプレスリリースの取捨選択をしていたそうです。

 また、いくら一所懸命プレスリリースを送ってもまったく番組からは取材を受けない企業が数多くある一方、我々テレビ制作現場に携わる人々との人脈があるからという理由だけで、簡単に番組に商品・人・会社を取材対象として持ちかけることができる人々もいました。一部のテレビに強いPR会社やリサーチャー業務を兼任しているPRマンなどでした。

吉池D「ニュース性はもちろん必要なのだが、表現が下手なプレスリリースやマスメディアの心を知っていない会社はそれだけで損だよな。もっというなら、結局この世界は人脈で決まってしまうようなところも多分にあるし。まてよ・・マスメディアの考え方や欲しがる情報を熟知して、人脈もそこそこ持っている俺が、PRを望む会社の支援をするとどうなるのかな?そりゃあ、打率が高いに決まっているのでは!?」

 無尽蔵ともいえるダメダメプレスリリースと僅かな量のグッドジョブプレスリリース、そして人脈重視のテレビ業界情報収集慣習を見てきて、そんなことを私は考えるようになっていました。

 しかし残念ながら、当時の私にはまだ自分が独立して事業を起こす具体的なプランも勇気も金もなく(この後アメリカに留学することも決まっていました)、MBCというPR会社として独立起業するまでにはまだまだ時間がかかります。

MBC/PR会社創業物語 #05 映画のシナリオライターを目指してみました

1973年長野県戸倉町(現在の千曲市)に生まれました私は高校時代まで映画のシナリオライターを目指していました。戸倉町には戸倉上山田温泉という、一昔前には非常に栄えていた温泉街があります。私の両親が双方とも戸倉町出身であり、両親が戸倉町に帰省している最中に私は生まれたので、ほんの数年前までは住んだこともない長野県が本籍地となっていました。

ちなみに、戸倉上山田温泉は今ではすっかり没落し、「長野県の熱海」ともいえるまでに閑散とした温泉街になってしまいました(さびしいですね)。数年前に役場の職員さんとお酒を飲む機会があったのですが、すっかり空洞化してしまった街を嘆いておられました。

 生まれは長野県であるものの育ちはずっと埼玉県。今は住民票を東京都に移してしまっていますが、常に僕のアイデンティティーは「埼玉県」にありまして、地元愛の性質が薄いといわれる埼玉県民には珍しい方かもしれません。学校は北本市みなみ幼稚園⇒北本市立西小学校⇒北本市立北本中学校と北本づくしでした。中学時代はサッカー少年でしたが、部活はサボりぐせがなかなか抜けませんでした。

 小説を濫読したのはこの頃で、特に三国志には心を躍らせたものです。吉川英治の小説は何十回読んだことかわからなかったし、今でも何年かに1度は読み返してしまうほどです。原書完訳の三国志演義や陳舜臣の『秘本・三国志』にも傾倒していました。多くの戦略家参謀を抱え、自らも戦略家だった曹操孟徳という主人公の魅力に惹かれていた少年時代でした。

 このころから守屋洋氏の「孫子」「呉子」「兵法三十六計」、クラウゼヴィッツ「戦争論」などをわけもわからず乱読するようになっていました。今はセミナーなどで「PR戦略論」などと勝手なことを喋らせてもらっていますが、戦略論を語るときにはこの頃貪るように読んだこういった歴史書・戦略書から影響を受けているので、ビジネス事例に当てはめて紹介をしたりすることが今でもあります。

 高校は埼玉県立伊奈学園総合高等学校というやけに生徒数が多い(全校で3,000人、1学年24クラス)マンモス校に入学しました。本当は県立浦和西高校を受験したかったのですが、中学の担任が「あんたの今の成績では落ちる」といわれて安全パイの高校を受験してしまいました。後からとある裏ルートで聞いてみたところ、「浦和西高校どころかその遥か上をいく、熊谷高校ですら合格していた点数だった。なぜ浦和西受けなかった?」といわれました。

 他人の「どうせ無理だよ」という言葉に惑わされて自分自身の意思で人生の選択ができず後悔をしてしまった結果になりました。今思い出しても悔しいですね。確実にこの苦い経験がその後の私の人生において大きな影響を与えました。つまり、あまり人の意見を聞かない頑固な人間になったというところでしょうか。

MBC/PR会社創業物語 #06 映画学科と営業と

校時代には何故かビジネス本や自己啓発本をよく読みました。たまたま本屋で手に取ったD・カーネギー氏の書籍「人を動かす」がきっかけでしたが、周囲の友人がまだあまり読まないような書籍を読んでいることに不思議な優越感?のようなものを感じていました。映画を浴びるように鑑賞したのもこの頃でした。

そんな高校時代卒業間際の進路選択時に「将来は映画業界関係者になればウハウハの人生に違いない!」と考え始めました。現実的な日本の映画産業のこともロクに調べず、ものすごくミーハーな発想だけでこう考えていました。クラスメートが皆「経済」「商業」「経営」学部・学科に進学するのを尻目に、私1人だけ『日本大学芸術学部映画学科』に進学を希望することにしました。

 無謀にも他大学は受験せず、他大学も受けろという周囲の声を押し切り、「俺は日芸だけしか受験しない」と頑固に言い張ってしまいました。高校受験時のように他人の言葉で自分の人生を変えたくなかったからだと思います。

 日芸に進学したかった理由は、そもそも無類の映画好きだったという大義名分があるのですが、本当の本音をいってしまうと、将来映画関係者になればきれいな女優サン達と仲良くなれると大真面目に思っていました。実はこっちが99%本当の理由かもしれません。

 不純な動機が災いしてか当たり前のように浪人。この頃は学習研究社の子会社にアルバイトで出入りして学習教材の訪問販売をしていました。1年程度の短いバイトでしたが、今から思い出せばまるで「電波少年」並みの飛び込みアポなし営業を大量にこなした稽古をこなしたようなものでした。

 今でもクライアント会社様のPR案件をマスメディア企業に図々しく飛び込んでいくPRキャラバン営業をしょっちゅう行っています(流石にマスメディア媒体に対してはできる限りアポは取ります)。ときどき色々な方から「よく飛び込みPR営業なんて平気な顔してできるよね」といわれることがあるのですが、初めて会った他人に対してモノを売り込む訪問販売時代に比べれば、マスメディアに対するPR営業なんて本当に屁でもないですね。

 営業戦略を研究するのが好きなビジネスマンの方や企業家の方は「再度訪問方式営業」「エリア戦略」などという言葉をよくご存知だと思います。当時私がアルバイトをしていた学習研究社子会社の訪問販売ビジネスでは、これらの営業セオリーをきっちり押さえた大変理にかなう営業戦略を私たちに教えてくれました。

 初回の訪問営業日では一切「売り気配」を出さず、ターゲット顧客層の主婦層から好かれるように、若者らしく体育会系のノリで元気よく挨拶。手渡しで私自身の名前が入った挨拶状チラシだけを配ります。この間一切販売商品の詳細は切り出さないので、相手の心を簡単に開くことができました。

 翌日に再度訪問営業を行います。初日の訪問日ですっかり打ち解けた関係になる頃にようやく商品についての説明と契約のクロージングを行います。営業活動地域は埼玉県内一定区域の狭い場所のみが各営業担当者に割り振りされます。割り振りされたエリアを最も効率的に移動できる順番で営業を行うのが基本でした。これらは全て営業マニュアルで決められている戦術であり、全ての営業マンが同じ形で営業活動を行いました。

 生まれて始めて「営業」という泥臭い世界を知りカルチャーショックの連続でしたが、今のPR会社としての活動にも大きく影響するほど勉強になりました。当時は浪人生という立場上、毎日予備校に通わなくてはならなかったのですが、入学した予備校コースとの相性があわなかったこともあり、どうも予備校の授業に違和感を覚えていました。「こんなんじゃ日芸合格しないな・・・」自然に独学浪人をすることにしてなんとか1浪で合格。夢の日本大学芸術学部映画学科への入学が決まりました(同時受験をした放送学科は撃沈してしまいました。面接試験で「第2のテリー伊藤になりたい」といったのがまずかったかなあ)。

 ところで日芸の入学試験では他人の真似しかしない学生が一番嫌われるそうです。しかし当時は高田文夫さん、テリー伊藤さん、高城剛さんなど、日芸出身の放送作家・映像マンの方々に強く憧れていました。この学校に入れば自分も彼らのような大物映像作家か放送作家になれるのでは、と無邪気に考えておりました。

 散々憧れて入った日大芸術学部でしたが、入学直後は「バリバリの芸術家肌」の同窓となんとなく気が合わないことも多く『商業映画=駄目映画』という友人たちの考え方になかなか共鳴することができませんでした。私の考え方は『作品を観てくれるお客がいてこそエンターテイメントだろう』というものでした。だから友人達が馬鹿にするような、予定調和のハリウッド映画も私は好きでした。

 今考えてみると、私はアメリカ映画産業のマーケティングそのものに興味がわいていたのではないかと思います。奇しくも日本映画界はマーケティング力のなさで滅亡寸前の憂き目見ていた時期でした(現在はシネマコンプレックスというインフラの充実と各テレビ局が広告収入以外の新しいビジネスチャンスとして、テレビ番組とクロスマーケティングさせた邦画作品を多数作り、大ヒット作品も珍しくなくなっていますね。私の学生時代では信じられない現象です。マーケティングにより1度死んだ日本映画はマーケティングにより再生したといえそうです)。

 そんな調子で手持ち無沙汰な大学入学直後、担当教授のツテでNHKの制作現場にもぐりこむ事が成功しました。NHK情報ネットワーク、NHK、民間放送局、衛星放送局、他多数の制作会社さんの間を行ったりきたりしながら、どっぷりとテレビ制作業界に浸っていきました(この辺は冒頭にご説明したような感じですね)。

 私自身がサッカー好きだからというわけではないのですが、サッカー番組やスポーツ関係映像作成が最も多かったように思います。また情報番組やドキュメンタリーの構成作家としての仕事もしばしばさせていただきました。そのまま何だか学生だかテレビ業界人だかわからないような立場のまま大学を卒業しましたが、卒業時制作の映画シナリオ「くたばれアインシュタイン」が芸術学部特別賞を受賞したので、一応大学入学を許してくれた両親には面子が立ったのかもしれないと自画自賛していました。

 この頃はまだ「将来はシナリオライターで一発当ててやる」との小さな野望を小脇に抱えつつ、シコシコTV制作にいそしんでいるといった感じでした。

MBC/PR会社創業物語 #07 フリーの制作マンをやめて渡米

卒業後あちらこちらの制作現場に顔を出すフリーテレビ制作マンとして、あちこちの制作現場で働いていましたが、この頃に興味があったのが米国留学であり、その思いは日に日に強くなっていきました。その想いには当時の職場環境が大きく関係していいました。

学生時代、特にお世話になったNHKには非常に語学堪能な方が多く、「そもそも英語くらい出来ないと仕事なんかにならない」というのがある種常識でした。子供の頃から徹底して英語を避けてきた私は強烈に自分の英語嫌いを反省し、「絶対に自分も英語はマスターしなければいけない」と感じるようになっていました。

 また、映像シナリオ作成・映像制作ばかり学んできた僕がビジネスに興味を持ち始めたのもこの頃です。ディレクター・構成作家として地味に活動をしていましたが、ある知り合いのプロデューサーさんにこんなことを言われたのがきっかけです。

Pさん:「吉池、お前ディレクター向きじゃないよ。」

吉池:「え!(ショック!俺ってダメ人間?)」

Pさん:「映像作るなら他に山ほど天才的なやつがいて、お前では彼らに絶対に勝てないよ。お前はどちらかというとプロデューサー向きだね。人・モノ・金の管理と周囲への気遣いは抜群だよ」

吉池:「お・・(うれしい)。僕は今まで映像制作と文章作成しか勉強してきませんでした。プロデューサーになるには何を勉強すればよいのですか?」

Pさん:「そりゃあお前簡単だよ。経営を勉強すればいいんだよ。結局そこに一流プロデューサーになるためのエッセンスがつまっていると思うぞ」

吉池:「そっか、ビジネスの勉強ですか!やっぱりそうですよね!」

 漠然と経営学に興味を持っていた私はこのとき目の前がぱっと明るくなったような感触がしたのを今でも覚えています。米国留学では絶対にビジネスを専攻しよう!どうせなら最先端で1流のビジネス理論をマスターして帰ってこよう!と意気揚々となりました。そうと決まれば話は早く、すぐに米国留学の準備を始めてしまいました。幸いなことにTOEFLもそこそこの点数を取得することができ、米国の大学に入学する準備は1年くらいで整いました。自分で何とか貯めたお金と親から借りたお金で、いざ出発…となりました。テレビ制作現場の仕事も、当然全て辞めさせて頂きました。

 実は今だから言えるアメリカ留学への別の理由というのがあります。単純に英語が話せる男性がモテモテなのでは?という浅薄な妄想と、国際政治の上で傲慢なアメリカ人が大嫌いだったので、逆にどんなものか実際に彼らの国を見てやろう、その上で文句を言ってやろう!という「文字通り若気の至り」という理由が多分にありました。恥ずかしくてあまり人に言えるような留学理由ではありませんね…。

MBC/PR会社創業物語 #08 米国での成功と挫折 =お金がなくてこっそり起業=

渡米後に入学が決定していた大学はワシントン州のシアトルにありましたが、入学日まで3ヶ月ほど時間が余っていました。そこでまずはテキサス州のKingsvilleという超田舎町に居を構えながら、大学付属の語学学校に入りました。ぱっと聞くにはお気楽な留学生活ですが、実際は苦労苦労の連続でした。

 何せシアトルに行ってからの学費を考えると超貧乏節約生活をしながら、できるだけコストカットに励まなければならないため、50セントのコインランドリー代金をケチって手洗い、飯は当然のように自炊中心で「マクドナルドなんて高くてもったいない!」といった感じでした。

 私のあまりの質素貧乏ぶりを目の当たりにして、同じく質素な生活をしていたケニヤ人留学生が感銘して握手を求めてきた位でした(彼はケニヤでは大金持ちの政府関係者のご子息ですが、アメリカに来るとその身分に対して驚くほど質素な学生生活を過ごしていました。謙虚で勤勉な方だったのですね)。

 この頃は何かと韓国人留学生と喧嘩をしていましたね。でも最後には親友になるのが同じアジア人だからとでもいうか…なんだか不思議でした。そんなこんなでテキサスでは3ヶ月余りを過ごし、満を持してワシントン州シアトルに乗り込みました。

 当時のシアトルはMLBシアトルマリナーズにイチロー選手が在籍するずっと前の頃で、日本人の間でも「シアトル?どこそれ?」といったようなマイナー中堅都市といったイメージでした。

 そんなシアトルという街に移住してみるとテキサス州に比べてあまりに生活費と学費が高いことに驚きました。それだけではなく実は当時大ブームだったITバブルに乗った株式投資で失敗をしてしまい、大切な学費・生活費を大きく焦げ付かせてしまいました。結局、足りない資金を自分自身で稼がざるを得ない状況に陥ってしまいました(本当は学生ビザによる渡米でしたので公式にお金を稼ぐことは出来ません。実はまあ、この裏側には色々なことがあったのですがここではヤバすぎますので割愛です)。

 シアトルの町に入ったときは、なんとかして2年でMBAを取って帰国したいと考えていました。しかしいざシアトル入りしてみると生活費と学費で優に1200万程必要なことがわかり、手持ち現金が700万円だった僕にはMBA受講は夢となってしまいました。その上今回の株式投資による失敗よる資金焦げ付きは大事件でした。

 とりあえず実践的なビジネス実務を理論と同時に取得するため、割と学費が安い大学の社会人向けビジネスコースを2コース同時に選択することにしました。「International Business(国際貿易)」と「Entrepreneur Course(独立起業)」のそれぞれを同時専攻するちょっと無謀なやり方でしたが、ローカルの会社社長さんたちが講師だったり、または生徒として授業に参加していることもあったりするような環境だったので、非常に実戦的なアメリカのビジネスを学ぶことが出来ました。

 留学中はインターンシップとして現地の企業で働くことも可能だったので、貿易会社と地元ローカルテレビ局で働くことになりました。ローカルテレビ局ではニュース番組の制作現場に配属されたので、ラッキーなことに現地のプレスリリースを何度も目にする機会がありました。

 そこで感じたのは「へー、アメリカのプレスリリースって(日本と違い)ものすごく工夫されているなあ!」ということです。プレスリリースはとにかくマスメディアに見てもらわないとお話にもならないことを、米国の企業広報担当者は良くご存知のようでした。

 またマスメディア側もプレスリリースに対して非常に理解が深く、新聞などではニュース記事の70%以上もプレスリリース情報を元にして作られているというデータもあります。様々な形で米国流PR術に触れることができたのは非常に大きな経験になりました。

 そんなこんなで米国での学生生活も半ばに差し掛かるよりずっと前に、手持ちのお金がほとんど尽きてしまいまいた。もちろんシアトルに来てすぐに焦げ付かしてしまった投資元本が原因です。先ほど私は「自分自身で稼がなければならなくなった」と言いましたが、このままだと3年間の留学予定期間を終えることもなく、単なる金銭的ガス欠を起こして帰国しなくてはならなくなってしまう可能性が現実味を帯びてきましたのです。

「よし、自分で何とか金を稼ぐしかない。就労ビザはないけどやり方によっては何とかなるだろう」

 当時マイクロソフト、Amazon.com、リアルネットワークス等のIT企業の本社がひしめいているシアトルの街中では、インターネット関連のビジネス情報や知識が黙っていてもどんどんと私の耳に入ってきました。今までビジネスを体系的に勉強してこなかったため、本場のマーケティング思考とシアトルのコンピュータライズされた生活にどっぷりとつかりながら、独学で学んだインターネットとPCの知識と技術で小金を稼ぎ始めるようになります。このときの主な業務はウェブデザイン及びウェブマーケティングでしたが、実質的なSOHO形態の一匹狼(…というか一人社長+友人従業員一人)として活動を始めました。

 私はアメリカ国内における「外国人」という立場を利用して、英語日本語間の翻訳業務を付加価値としたウェブサイトの制作・デザイン・マーケティングサービスを提供していたので、日本市場を狙っているローカル会社社長様達(シアトルは日本に一番近い北米都市ですので、日本との間で交易ビジネスを行っている事業主が多い)からは非常に好評を頂きました。その結果、お客さんがお客さんを連れてくるという理想的な状況になりました。ビザの問題はちょっと裏作業を色々としましてクリアし、これで金銭的な損失の穴埋めは何とかビジネスで埋めることが出来るようになったわけです。

 またローカルテレビ局でのインターンシップ経験を活用し、シアトルに進出してくる日系企業(これまた数多く存在しました)のPR業務代行やプレスリリース作成・配信代行業務を行いました。このあたりは今の業務内容の原点になっています。

 金銭的な心配が無くなってきたからといっても、もちろん学生としての身分はまったく変わらないわけで、仕事だけに没頭しているわけにもいかず勉強にも多大な時間を割かなければなりません。よく言われるようにアメリカの学生はものすごい勉強量を要求されるため、当時は飯を食うのも惜しいほど本を読み勉強をしました。全て英文のビジネス書ですから外国人である僕には1冊読破するだけでも非常に時間がかかりました。

 しかし慣れとは恐ろしいもので、1日1日と英文を読むスピードが上がってくるのが自分でもよくわかりました(日本に帰国後、中小企業診断士の資格をとることになるのですが、ほとんどの診断士科目はこのときアメリカにて学習していた内容でした。中小企業診断士の学習内容は、正直いって一般のビジネス基準から遅れ気味なのかもしれません)。そしてこの頃は空き時間を利用して、全米で行われる経営セミナー等にも積極的に参加しました。

MBC/PR会社創業物語 #09 日本で2回目の起業

日々忙しく過ごすアメリカでの日々でしたが何かに飢えているような、乾いているような感覚に襲われることが多いのに気づきました。ふと気が付くと3年近く日本に帰国していない状況に気がつきました。借金までして米国に来たのですから、なんとか大きく一旗上げたい!と思っていましたが、その借金も返さねば成らないない。

お金の問題もありましたが、なにより親兄弟に3年間も顔を見せていないことが心苦しくなっていました。家族の中では「あの頃お前は半失踪状態になっていたぞ」と後ほど言われてしまった程でした。更に決定的なのは学生ビザが切れてしまう日が刻一刻と近づいていることでした。

「よし、ここら日本に帰ろう。こっちで培ったノウハウと根性を糧にして日本で二度目の起業しよう!」

 そして約3年ぶりに帰国しまして、日本国内でビジネスを1から始めることにしました。事業内容は米国時代から継続する形のウェブ制作・ウェブマーケティング業務・PR代理業務に決定しました。

 しかしこの頃はお金になれば何でもした気がします。アダルトサイトから議員さんのサイトまで頼まれればなんでも作りましたし、業種業態問わずコンサルティングアドバイスも行いました。その結果、自分のキャパシティー以上のお客様を抱え込むこととなってしまい、過労で3回倒れ、2回も入院をする羽目になってしまったのです。

「このままでは俺死ぬな…もっと自分が心底やりたい仕事だけに特化する必要があるのかもしれないな」

 体調をひどく崩したことがきっかけで、自分が過去やってきたことと今後やりたいことをじっくり考える時間を取ることができました。インターネットビジネスのマーケティング支援活動を行っていた当時、なにか大きな疑問というかもやもやしたものを感じていました(本来、外出していることが好きな性質なので室内にこもって作業をしなければならないネットマーケティング支援は結構苦痛に感じていました)。

 入院している期間を利用して何日間も人生と私のビジネスが特化していくべき分野(ドメイン)について必死に考えました。更に、其の先にある経営理念についても頭を振り絞って考えていました。

「散々考えたけれど、私の原点は学生時代から一貫してマスメディア業界にあるなあ。」

 そのときに思い出したのが、テレビ制作時代に毎日何百と受け取っていたプレスリリースや、自分が取材をする側だった企業の記者会見、記者クラブで報道用資料の配布についてのことでした。つまりPRです。

「そうだ!昔考えたようにプレスリリースを受ける側から作って送る側になればいい。PRプロモーションを受ける側から、プロモーションをする側になろう。マスメディアが欲しがる情報を企業から上手く引き出してあげて、情報を探しているマスメディアとマッチングさせる。これこそ自分が一番得意な分野じゃないか」

 その日から体系的に広報業務の勉強をはじめ、PR会社の友人に指導を仰ぐことを決定いたしました。今も昔も一番私達がコネクションを持っているのはテレビ業界ですから、その強みを徹底的に伸ばす形でのビジネス展開を決意しました。クライアント会社様のために、プレスリリースを作り記者クラブでの資料配布を行い、メディアキャラバンを行い、記者会見をプロモートいたしました。

 最初はスポット業務のみの請負が多かったのですが、継続契約を結んで頂けるクライアント会社様は1社、2社と次第増えて行き、PRコンサルティングサポート業務は絶好調に見え、数多くのクライアントをテレビ媒体を中心とするマスメディアにPR露出させることに成功してきました。

「テレビPR戦略は上手く行っている。でも…まだ何か足りないそれは何だろう?」

 実はその答えは私自身十分によくわかっていました。それはPR対象として考えた際の「テレビの弱点」のことでした。テレビPRは爆発的なインパクトを広いカバレッジで消費者に与えることが出来るという利点がありますが、店舗やイベントを除く一部の商品等のPRの場合には、なかなか直接購買に結びつけることが難しくなるケースがあるのです。それはテレビメディアと消費者購買活動の間にある時間・距離・場所の断絶が原因でした。

MBC/PR会社創業物語 #10 鍵はインターネットだった!

せっかく苦労してクライアント会社(商品)をテレビPR露出させることに成功しても、商品やサービスへの問い合わせが少なかったり、実際に商品が売れなかったりすることほど悲しいことはありません。自らをテレビに強いPR会社、PRコンサルタントとして仕事をするのであれば尚更です。

 確かに視聴者がテレビを見ていて、番組内で紹介された商品に対して「これが欲しい!」と思わせることはそれほど難しくありません。しかし、多くの消費者がテレビを見ていたことやPR商品について「欲しい」と思ったことなどをあっという間に忘れてしまうのです(だからこそPRよりも消費者の注目を集めにくいコマーシャルは人間の頭に商品イメージが染み付くまで繰り返す必要があります)。

 もしもテレビを見ている消費者の自宅となりにそのPR商品が売っているのであればそんなことはないでしょう。走ってPR商品を買いに行く人が続出するはずです。しかし現実はそのような事はほぼありえません。せっかく商品を影響力のあるテレビでPR露出させても、人々はいとも簡単に忘れてしまうのです。これが私の葛藤でした。

 しかしそんなテレビPRの弱点を補完するソリューションメディアの存在に気付きました。日本へ帰国した直後、自分自身の事業ドメインを決定する際に「切り捨ててしまった」はずのメディア、インターネットが私の悩みを解決する鍵となることに気付きました。もっと具体的に言うのであれば「検索エンジン」がテレビPRの弱点を埋めてくれるソリューションメディアであるといえます。

 これまでのテレビPRではせっかく露出させた商品に対する購買意欲を誘引させても、実際に商品を購入することが出来る商店にまで消費者を走らせることは非常に難しい状況がありました。ところがインターネットの出現により、消費者はテレビPRにて購買意欲を刺激された商品を放送後(または放送中)にすぐ検索し、その場で購入をすることができるようになりました。まさに「入口がテレビで出口がインターネット」といえるような消費行動が当たり前になったわけです。ということは、テレビPR施策を実施すると同時にSEO/SEM、SNS、ブログを含めてConsumer Generated Mediaへの対応を含めた総合インターネットPR施策を完全に用意することができれば、大変大きな収穫を得ることが出来るPR施策を施すことが可能になることは明白です。

「テレビPR+インターネットPR」

 メディアブリッジコンサルティングの最終的な事業ドメインが決定した瞬間です。

 こうしてメディアブリッジコンサルティングスタート以降、おかげさまで数多くのクライアント会社様に「テレビPR+インターネットPR」をドメインとするコンサルティングサービスを供給させていただくことができ、セミナー活動や執筆活動も数多く行わせて頂き現在に至ります。

 ところで映画シナリオライターになる夢はどうなってしまったのでしょうか?実は私が学生時代から暖めてきたこの夢なのですが、毎日のように-実現させているのです。「映画」というステージではありませんが、クライアント会社様のビジネスシナリオをサクセスストーリーとして書き上げ、演出し、時には私自身も役者としても経営者様と共演することを行っています。PR会社業務を通じて「クライアント会社様のブランディングストーリーを紡ぐシナリオライター」に少しずつ近づいているかな…そうだといいな…と毎日心を躍らせながら、PRコンサルタントの吉池理はMBCのスタッフと共に仕事をしております。

 

追伸

 不思議なことに昔映画の世界を志した私の会社で働く頼れるPRマン達は、本物の映画俳優としても活躍をしている人達です(本当です)。

「あれ、この俳優さんってMBCからよく来るPRの営業さんじゃない?」

 スクリーンやテレビで彼ら彼女らの姿を見ることがありましたら、是非、暖かい拍手を贈っていただけますと幸いです。